東京地判令和6年8月20日(令和4年(ワ)第8358号・令和5年(ワ)第11971号、遺言無効確認請求事件(本訴)・不当利得返還等請求事件(反訴))
① 事案の概要
本訴は、原告(亡Aの弟)が、A名義の令和2年9月14日付け自筆証書遺言(以下「本件遺言」といいます)につき、Aの自筆によるものではないとして無効確認を求めた事案です。反訴は、被告ら(Aの姉やその子・孫)が、本件遺言により自分たちが取得するはずであった現預金相当額について、原告に対し不当利得返還を求めた事案です。
Aは、本件遺言の作成日とされる令和2年9月14日以前に、平成15年・平成22年(2通)・令和元年の4回にわたり公正証書遺言を作成しており、いずれも現預金は原告に相続させる内容で一貫していました。ところが、本件遺言(自筆証書)は、現預金を原告30%、被告Y1 30%、被告Y2 10%、その他の被告ら各5%とする、それまでの公正証書遺言とは全く異なる分配内容でした。本件遺言書は、Aの死亡後、被告らがAの自宅から持ち帰った書類の中から発見されたとされています。
裁判所は、本件遺言書の筆跡、内容の合理性、発見経緯という複数の間接事実を総合的に検討した結果、本件遺言がAの自書によるものとは認められないと判断し、本件遺言を無効としました(本訴認容、反訴棄却)。本記事では、直接証拠(本人の自認等)がない中で、自書性の有無をどのような間接事実から認定するかという点に焦点を当てます。
② 争点
争点:本件遺言書は、Aの自書によるものか
この一点に争点が絞られていますが、判断の過程では、①筆跡、②遺言の内容、③発見の経緯という複数の側面から、間接事実が総合的に検討されています。
③ 裁判所の判断
(1)筆跡について ― 双方の鑑定書がいずれも「自書」を積極的に裏付けない
裁判所は、まず筆跡そのものの比較から検討を始めています。
「Aは,本件公正証書遺言に係る各遺言公正証書に自ら署名しているところ,これらにおけるAの自署の筆跡と,本件遺言書のA名下の署名の筆跡とを比較すると,一見して少なくとも「X」の字の字体が異なることを看取し得る。加えて,原告提出に係る筆跡鑑定書……においては,本件遺言書の筆跡と本件遺言公正証書やその他のA作成に係る文書の筆跡は異なる筆者によるものと推定されているし,被告提出に係る筆跡鑑定書……においても,本件遺言書の筆跡とA作成に係る文書の筆跡とが同一筆者によって記載された可能性がある旨をいうにとどまっている。」
ここで注目すべきは、被告側が提出した鑑定書ですら「同一筆者の可能性がある」と述べるにとどまり、積極的に「同一筆者である」と断定してはいないという点です。裁判所は、原告側鑑定書の「異なる筆者と推定される」という積極的な否定意見と、被告側鑑定書の「可能性がある」という消極的な肯定意見とを対比し、後者が自書性を積極的に裏付けるものではないと評価しました。
押印についても、実印による印影が存在するように見えることは認めつつ、次のように述べています。
「そもそも,上記押印がAの生前にされたものかどうかは証拠上明らかではない。また,被告Y3がA宅の鍵を所持しており……現にAの死亡後に被告Y3及び被告Y1らがA宅に立ち入り書類等を持ち帰っていることなどからすれば,A以外の者がAの実印を持ち出し使用することも可能な状況であったといえる。そうすると,上記押印がAの実印によるものであったとしても,Aの意思に基づくものであると直ちに推定することはできない。」
実印による押印という、一見すると強力な証拠であっても、第三者が実印にアクセスできる状況にあった場合には、押印の事実だけから本人の意思を推定できないという判断です。鉛筆の下書きの痕跡や不必要な記載の存在についても、「A以外の者が本件遺言書を作成していたとしても生じ得る」として、自書性を裏付ける事情とは認めませんでした。
(2)遺言内容の合理性 ― 直前の公正証書遺言との「落差」
裁判所は、次に遺言の内容面から、Aが本件遺言を作成する動機・合理性があったかを検討しています。
「Aは,本件遺言書において作成日とされている令和2年9月14日以前に,4回にわたる本件公正証書遺言をしている。……本件遺言書がAの自書によるものであるとすれば,Aは,上記の経緯で令和元年遺言をしたにもかかわらず,その約1年後にそれを覆す内容の本件遺言をしたということになるのであって,AがCらに改めて相談して公正証書遺言を作成することに支障があったという事情も証拠上うかがわれないことにも照らすと,相応の理由が認められない限りは,Aが本件遺言をしたとみるのは不自然であるというほかない。」
さらに、公正証書遺言が一貫して現預金を原告に相続させる内容であったことについても、原告が長年会社の経営実務を担っていた一方、被告らは経営に関与していなかったという事実と整合的であると評価し、次のように結論付けています。
「令和元年遺言の作成後,原告とAとの関係が殊更に悪化したことを認めるに足りる的確な証拠はない。それにもかかわらず,Aが現預金の分配につき,本件公正証書遺言とは全く異なる内容の本件遺言書を作成したというのは,相応の理由が認められない限り,やはり不自然であるというほかない。」
被告らは、原告への不満の高まりや、姪との関係の深まりを心変わりの根拠として主張しましたが、裁判所は、いずれの事情も令和元年遺言の作成前から存在していたものにすぎず、その後の1年間で心変わりをするに足りる新たな事情とは評価できないとして、これらの主張を退けました。公正証書遺言という、専門家の関与を経た方法での遺言作成との落差の大きさが、自書性を疑わせる重要な間接事実として機能しています。
(3)発見経緯の不自然さ ― LINEメッセージの時系列からの推認
裁判所は、最後に、本件遺言書が発見された経緯についても検討を加えています。被告Y2は、Aの死亡後、自宅から持ち帰った書類の中の公証役場の封筒から、令和元年遺言の公正証書と本件遺言書を同時に発見したと主張していました。これに対し、裁判所は次のように判断しています。
「被告Y2は,Cに対し,令和3月1月7日午後0時15分に本件LINE1をし,同日午後8時53分に本件LINE2をしているところ……上記の経緯で本件遺言書を発見し,両者の法律上の効力がどのようになるのか分からなかった……というのであれば,本件LINE1の際に,上記遺言公正証書を発見した旨伝えることと併せて,本件遺言書の写真を送付するなどしてその取扱いについて尋ねそうなものであるのに,そのような行動をとっていないのはいささか不自然である。」
同一の封筒から2つの重要書類を同時に発見したという主張であれば、最初の連絡(本件LINE1)の際に両方について言及するのが自然であるにもかかわらず、本件遺言書についての言及(本件LINE2)は約8時間半後になされているという時系列の不自然さを指摘しています。被告側は「話が長くなるのでLINEでは伝えなかった」と説明しましたが、裁判所は「取扱いを尋ねる程度であれば容易になし得る」として、合理的な説明とは認めませんでした。
(4)総合判断
裁判所は、以上の筆跡・内容・発見経緯という3つの側面から得られた間接事実を総合し、次のとおり結論付けています。
「以上の事情を総合考慮すると,本件遺言書がAの自書によるものであると認めることはできない。したがって,本件遺言は無効である。」
いずれの間接事実も、単独では自書性を否定する決定的な証拠とは言い切れないものですが、筆跡の不一致、内容の不自然な落差、発見経緯の不整合という複数の間接事実が積み重なることで、自書性を否定する結論に至っている点が、本判決の分析手法として重要です。
④ 実務への示唆
第一に、筆跡鑑定書は、鑑定意見の強度(断定か、可能性の指摘にとどまるか)を踏まえて評価する必要があります。 本判決は、被告側鑑定書が「同一筆者の可能性がある」と述べるにとどまることを、積極的な肯定証拠とは扱いませんでした。筆跡鑑定書を証拠として提出・検討する際は、鑑定結果が断定的な意見なのか、可能性を示唆するにとどまるものなのかを区別して評価する必要があります。
第二に、実印による押印があっても、押印の機会が第三者にあった場合は、本人の意思による押印と直ちに推定されません。 同居の親族等が印鑑を管理・アクセスできる状況にあった事案では、実印の存在のみをもって遺言の真正を主張することは危険です。印鑑の保管状況、アクセス可能な人物の範囲についても、事前に整理しておく必要があります。
第三に、直前まで一貫していた公正証書遺言の内容から大きく逸脱する自筆証書遺言が現れた場合、その「違い」の合理性が審査されます。 専門家の関与を経た公正証書遺言を複数回作成してきた遺言者が、その内容と大きく異なる自筆証書遺言を残したという事案では、心変わりした具体的な事情(関係の悪化、新たな交流等)を、遺言作成の直近の時期に限定して主張・立証する必要があります。本判決は、心変わりの根拠とされた事情が「令和元年遺言の作成前から存在していた」ことを理由に、それだけでは足りないと判断しました。
第四に、遺言書の発見経緯に関する主張は、その他の客観的な記録(LINE、メール等の送受信時刻)との整合性が厳しく検証されます。 遺言書の発見状況を主張する際は、その主張と時系列的に矛盾しない客観的record(メッセージの送受信時刻等)があるかを事前に確認しておく必要があります。些細な時間的なズレであっても、全体の信用性判断において重要な間接事実として扱われ得ることを踏まえた準備が求められます。
本記事は公刊された裁判例に基づく分析であり、個別事件への当てはめについては別途ご相談ください。







