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1. 平成17年の最高裁の判断
「子どもの連れ去り」に関する最高裁決定について本記事では、弁護士松野絵里子が検討をし、ご説明します。
別居中夫婦の離婚の事件でよく遭遇するのは、「配偶者が子どもを突然、連れ去ってしまって、別居を開始した、弁護士から通知が来たが子供の居場所はわからない!」という子の連れ去りの事案です。まるで悲鳴のようなご相談として、弁護士のところに舞い込む種類のご相談です。
あるいは、すでに別居をしているが、頻繁に面会交流をしていて子どもの「連れ去り」が怖いという不安を持つ人の相談もあります。
「子の連れ去りが犯罪になるのか」というご質問もよくあります。連れ去りをされた方から誘拐罪にならないのか?という質問はとくにかくよく受けますので、それについて結論を出している、この有名な最高裁判例について今回は考えてみたいと思います。
これは、離婚調停中の夫婦で起きた事件であり、夫が、妻のもとにいた子どもを保育園から連れ去ったケースです。つまり、すでに別居をしていた夫婦のケースです。
最高裁の平成17年12月6日の判決になります。最高裁が、結論として、別居している段階の子の奪取については、親が被告人でも未成年者略取罪が成立するとした事案です。
最高裁は、この事案について、「未成年者略取罪の成否」について検討をし、そこには反対の意見も示されています。以下、判決を紹介していきます。
2. 判例の事案の事実関係
まずは事実関係ですが、以下のようなものです。
1)被告人(父)は,別居中の妻Bが養育している長男C(当時2歳)を連れ去ることを計画して,平成14年11月22日午後3時45分ころ,青森県八戸市内の保育園の南側歩道上において,Bの母であるDに連れられて帰宅しようとしていたCを抱きかかえて自分が駐車していた自動車にCを乗せてCを連れ去りました。
2)この連れ去り行為の態様は、Cが通う保育園へBに代わって迎えに来たDが,自分の自動車にCを乗せる準備をしているすきをついてCに向かって駆け寄って背後からCを持ち上げて抱きかかえて,あらかじめドアロックをせず,エンジンも作動させたまま停車させていた自動車まで全力で疾走してCを抱えたまま運転席に乗り込み,ドアをロックしてから,Cを助手席に座らせ,Dが,同車の運転席の外側に立ち,運転席のドアノブをつかんで開けようとしたり,窓ガラスを手でたたいて制止するのも意に介さず,自車を発進させて走り去ったというものでした。(つまりかなり計画的にかつ暴力的な行動でした。)そして、この父は林道上でCと共に車内にいるところを警察官に発見されて通常逮捕されたのです。
3)別居までの経緯は次のとおりでした。
被告人である父は母との間にCが生まれたことから婚姻して東京都内で3人で生活していたが,平成13年9月15日父母で口論した際,被告人が暴力を振るうなどしたことから,母Bは,Cを連れて青森県八戸市内のBの実家に身を寄せました。こうやって別居が開始したのです。そして、被告人は,子であるCと会うことができないので,CをBの下から奪い,自分の支配下に置いて監護養育しようと計画して自宅のある東京からCらの生活する八戸に出向いて連れ去りを実行したのです。
母のBは,被告人を相手方として,夫婦関係調整調停や離婚訴訟を提起していて係争中でありましたが、子であるCに対する被告人の親権ないし監護権については制約するような法的処分は行われていませんでした。つまり父母は、通常の父母としての共同親権を有していたのです。
3. 多数意見の判断
最高裁の判断は以下のようなものでした。
「被告人は,Cの共同親権者の1人であるBの実家においてB及びその両親に監護養育されて平穏に生活していたCを,祖母のDに伴われて保育園から帰宅する途中に前記のような態様で有形力を用いて連れ去り,保護されている環境から引き離して自分の事実的支配下に置いたのであるから,その行為が未成年者略取罪の構成要件に該当することは明らかであり,被告人が親権者の1人であることは,その行為の違法性が例外的に阻却されるかどうかの判断において考慮されるべき事情であると解される(最高裁平成14年 (あ) 第805号同15年3月18日第二小法廷決定・刑集57巻3号371頁参照)。」
最高裁は、このように行為が未成年者略取罪の構成要件に該当するといい、親権者であるから違法性が阻却されるのかを、次に、検討していったのです。
「本件において,被告人は,離婚係争中の他方親権者であるBの下からCを奪取して自分の手元に置こうとしたものであって,そのような行動に出ることにつき,Cの監護養育上それが現に必要とされるような特段の事情は認められないから,その行為は,親権者によるものであるとしても,正当なものということはできない。また,本件の行為態様が粗暴で強引なものであること,Cが自分の生活環境についての判断・選択の能力が備わっていない2歳の幼児であること,その年齢上,常時監護養育が必要とされるのに,略取後の監護養育について確たる見通しがあったとも認め難いことなどに徴すると,家族間における行為として社会通念上許容され得る枠内にとどまるものと評することもできない。以上によれば,本件行為につき,違法性が阻却されるべき事情は認められないのであり,未成年者略取罪の成立を認めた原判断は,正当である。」
このように述べて、つまり「違法性は阻却されない」としました。母の下から子を奪取して自分の手元に置こうとした行動に出ることには「監護養育上それが現に必要とされるような特段の事情は認められない」としています。
この決定には、裁判官今井功の補足意見と裁判官滝井繁男の反対意見がありました。
4. 裁判官今井功の補足意見
今井裁判官は、以下のような補足意見を表明しています。
私は,家庭内の紛争に刑事司法が介入することには極力謙抑的であるべきであり,また,本件のように,別居中の夫婦の間で,子の監護について争いがある場合には,家庭裁判所において争いを解決するのが本来の在り方であると考えるものであり,この点においては,反対意見と同様の考えを持っている。しかし,家庭裁判所の役割を重視する立場に立つからこそ,本件のような行為について違法性はないとする反対意見には賛成することができない。
家庭裁判所は,家庭内の様々な法的紛争を解決するために設けられた専門の裁判所であり,そのための人的,物的施設を備え,家事審判法をはじめとする諸手続も整備されている。したがって,家庭内の法的紛争については,当事者間の話合いによる解決ができないときには,家庭裁判所において解決することが期待されているのである。
ところが,本件事案のように,別居中の夫婦の一方が,相手方の監護の下にある子を相手方の意に反して連れ去り,自らの支配の下に置くことは,たとえそれが子に対する親の情愛から出た行為であるとしても,家庭内の法的紛争を家庭裁判所で解決するのではなく,実力を行使して解決しようとするものであって,家庭裁判所の役割を無視し,家庭裁判所による解決を困難にする行為であるといわざるを得ない。近時,離婚や夫婦関係の調整事件をめぐって,子の親権や監護権を自らのものとしたいとして,子の引渡しを求める事例が増加しているが,本件のような行為が刑事法上許されるとすると,子の監護について,当事者間の円満な話合いや家庭裁判所の関与を待たないで,実力を行使して子を自らの支配下に置くという風潮を助長しかねないおそれがある。子の福祉という観点から見ても,一方の親権者の下で平穏に生活している子を実力を行使して自らの支配下に置くことは,子の生活環境を急激に変化させるものであって,これが,子の身体や精神に与える悪影響を軽視することはできないというべきである。
私は,家庭内の法的紛争の解決における家庭裁判所の役割を重視するという点では反対意見と同じ意見を持つが,そのことの故に,反対意見とは逆に,本件のように,別居中の夫婦が他方の監護の下にある子を強制的に連れ去り自分の事実的支配下に置くという略取罪の構成要件に該当するような行為については,たとえそれが親子の情愛から出た行為であるとしても,特段の事情のない限り,違法性を阻却することはないと考えるものである。
5. 反対意見
裁判官滝井繁男は反対意見を表明しており、大変に興味深いので紹介します。
私も,親権者の1人が他の親権者の下で監護養育されている子に対し有形力を行使して連れ出し,自分の事実的支配下に置くことは,未成年者略取罪の構成要件に該当すると考えるものである。しかしながら,両親の婚姻生活が円満を欠いて別居しているとき,共同親権者間で子の養育をめぐって対立し,親権者の1人の下で養育されている子を他の親権者が連れ去り自分の事実的支配の下に置こうとすることは珍しいことではなく,それが親子の情愛に起因するものであってその手段・方法が法秩序全体の精神からみて社会観念上是認されるべきものである限りは,社会的相当行為として実質的違法性を欠くとみるべきであって,親権者の1人が現実に監護していない我が子を自分の支配の下に置こうとすることに略取誘拐罪を適用して国が介入することは格別慎重でなければならないものと考える。
未成年者略取誘拐罪の保護法益は拐取された者の自由ないし安全と監護に当たっている者の保護監督権であると解されるところ,私は前者がより本質的なものであって,前者を離れて後者のみが独自の意味をもつ余地は限られたものであると解すべきであると考える。とりわけ,本件のように行為が親権者によるものであるとき,現に監護に当たっている者との関係では対等にその親権を行使し得るものであって,対立する権利の行使と見るべき側面もあるのであるから,それが親権の行使として逸脱したものでない限り,略取された者の自由等の法益の保護こそを中心にして考えるべきものである。
このような観点から本件を見るに,被告人は,他の親権者である妻の下にいるCを自分の手元に置こうとしたものであるが,そのような行動に出ることを現に必要とした特段の事情がなかったことは多数意見の指摘するとおりである。しかしながら,それは親の情愛の発露として出た行為であることも否定できないのであって,そのこと自体親権者の行為として格別非難されるべきものということはできない。
確かに,被告人の行動は,生活環境についての判断・選択の能力が十分でない2歳の幼児に対して,その後の監護養育について確たる見通しがない状況下で行われたことも事実である。しかしながら,親子間におけるある行為の社会的な許容性は子の福祉の視点からある程度長いレンジの中で評価すべきものであって,特定の日の特定の行為だけを取り上げその態様を重視して刑事法が介入することは慎重でなければならない。
従来,夫婦間における子の奪い合いともいうべき事件において,しばしば人身保護法による引渡しの申立てがなされたが,当裁判所は引渡しの要件である拘束の「顕著な違法性」の判断に当たっては,制限的な態度をとり,明らかに子の福祉に反すると認められる場合を除きこの種紛争は家庭裁判所の手続の中で解決するとの立場をとってきたものである(最高裁平成5年(オ)第609号同年10月19日第三小法廷判決・民集47巻8号5099頁,同平成6年(オ)第65号同年4月26日第三小法廷判決・民集48巻3号992頁など)。
私は,平成5年(オ)第609号同年10月19日第三小法廷判決において,「別居中の夫婦(幼児の父母)の間における監護権を巡る紛争は,本来,家庭裁判所の専属的守備範囲に属し,家事審判の制度,家庭裁判所の人的・物的の機構・設備は,このような問題の調査・審判のためにこそ存在するのである。」として,子の親権をめぐる紛争において審判前の保全処分の活用を示唆された裁判官可部恒雄の補足意見に全面的に賛成し,子の監護をめぐる紛争は子の福祉を最優先し,専ら家庭裁判所の手続での解決にゆだねるべきであって,他の機関の介入とりわけ刑事司法機関の介入は極力避けるべきものと考える。
このような考えに立つ以上,被告人もまたこの種紛争の解決は家庭裁判所にゆだねるべきであったのであるから,一方の親権者の下で平穏に生活している子に対し親権を行使しようとする場合には,まず,家庭裁判所における手続によるべきであって,それによることなく実力で自分の手元に置こうとすることは許されるべきことではないといえるものである。
しかしながら,そのことから被告人が所定の手続をとることなく我が子を連れ出そうとしたことが直ちに刑事法の介入すべき違法性をもつものと解すべきものではない。
そのような行為も親権の行使と見られるものである限り,仮に一時的に見れば,多少行き過ぎと見られる一面があるものであっても,それはその後の手続において子に対する関係では修復される可能性もあるのであるから,その行為をどのように評価するかは子の福祉の観点から見る家庭裁判所の判断にゆだねるべきであって,その領域に刑事手続が踏み込むことは謙抑的でなければならないのである。
確かに,このような場合家庭裁判所の手続によることなく,他の親権者の下で生活している子を連れ出すことは,監護に当たっている親権者の監護権を侵害するものとみることができる。しかしながら,その行為が家庭裁判所での解決を不可能若しくは困難にしたり,それを誤らせるようなものであればともかく,ある時期に,公の手続によって形成されたわけでもない一方の親権者の監護状態の下にいることを過大に評価し,それが侵害されたことを理由に,子の福祉の視点を抜きにして直ちに刑事法が介入すべきではないと考える。
むしろ,このような場合,感情的に対立する子を奪われた側の親権者の告訴により直ちに刑事法が介入することは,本件でも見られたように子を連れ出そうとした親権者の拘束に発展することになる結果,他方の親権者は保全処分を得るなど本来の専門的機関である家庭裁判所の手続を踏むことなく,刑事事件を通して対立する親権者を排除することが可能であると考えるようになって,そのような方法を選択する風潮を生む危険性を否定することができない。そのようになれば,子にとって家庭裁判所による専門的,科学的知識に基づく適正な監護方法の選択の機会を失わせるという現在の司法制度が全く想定していない事態となり,かつまた子にとってその親の1人が刑事事件の対象となったとの事実が残ることもあいまって,長期的にみればその福祉には沿わないことともなりかねないのである(このような連れ出し行為が決して珍しいことではないにもかかわらず,これまで刑事事件として立件される例がまれであったのは,本罪が親告罪であり,子を連れ去られた親権者の多くが告訴をしてまで事を荒立てないという配慮をしてきたからであるとも考えられるが,これまで述べてきたような観点から刑事法が介入することがためらわれたという側面も大きかったものと考えられる。本件のようなありふれた連れ出し行為についてまで当罰的であると評価することは,子を連れ去られた親権者が行為者である他方親権者を告訴しさえすれば,子の監護に関する紛争の実質的決着の場を,子の福祉の観点から行われる家庭裁判所の手続ではなく,そのような考慮を入れる余地の乏しい刑事司法手続に移し得ることを意味し,問題は大きいものといわなければならない。)。
以上の観点に立って本件を見るとき,被告人の行為は親権者の行為としてやや行き過ぎの観は免れないにしても,連れ出しは被拐取者に対し格別乱暴な取扱いをしたというべきものではなく,家庭裁判所における最終的解決を妨げるものではないのであるから,このような方法による実力行使によって子をその監護下に置くことは子との関係で社会観念上非難されるべきものではないのである。
このような考えから,私は被告人の本件連れ出しは社会的相当性の範囲内にあると認められ,その違法性が阻却されると解すべきものであると考える(私は,多数意見の引用する当小法廷の決定においては,一方の親権者の下で保護されている子を他方の親権者が有形力を用いて連れ出した行為につき違法性が阻却されないとする法廷意見に賛成したが,それは外国に連れ去る目的であった点において,家庭裁判所における解決を困難にするものであり,かつその方法も入院中の子の両足を引っ張って逆さにつり上げて連れ去ったという点において連れ出しの態様が子の安全にかかわるものであったなど,本件とは全く事案を異にするものであったことを付言しておきたい。)。
以上によれば,本件被告人の行為が違法性を阻却されないとした原判決は法律の解釈を誤ったものであり,その違法は判決に影響を及ぼすことは明らかであるから,これを破棄しなければ著しく正義に反するものといわなければならない。
6. 反対意見に書かれた視点について
反対意見を書いた裁判官滝井繁男は、1961年、京都大学法学部卒業後に司法修習をして、1963年に弁護士登録をした弁護士です。2002年から2006年まで最高裁判所判事でした。
反対意見には非常に鋭い指摘があります。
まず、この最高裁の多数意見は、そもそもの別居状態が家庭裁判所の判断の結果、形成されていない点を全く問題としていないが、滝井裁判官の意見にはそれがあるといっている点に注目するべきであると思います。「公の手続によって形成されたわけでもない一方の親権者の監護状態の下にいることを過大に評価し,それが侵害されたことを理由に,子の福祉の視点を抜きにして直ちに刑事法が介入すべきではないと考える。」と滝井裁判官はいっていますが、まさに最初に母が形成した「単独監護」は家庭裁判所の監護者指定という判断を経てなされたことではありません。面会交流をどのくらいするべきかという判断も経ていません。父親は、このように、自分が子を監護をできなくなったことについては、合意をしていないのに、自分の自宅での子の監護状態をはく奪されていますが、そのような状態になる段階で全く家裁の介入はないのです。
もっとも、この判例では、父である被告人の暴力で別居が開始されているので、監護者指定の申立をすれば母のほうで監護者に指定されることは簡単な事案であったかもしれません。
多数意見は、「本件において,被告人は,離婚係争中の他方親権者である母から子を奪取して自分の手元に置こうとしたものであって,そのような行動に出ることにつき,子の監護養育上それが現に必要とされるような特段の事情は認められないから,その行為は,親権者によるものであるとしても,正当なものということはできない」といいます。つまり、父が全く子の監護をできなくなっている状況を打破し、「子の監護養育」をしようとしたことについて(そのために保育園から連れ去ったことについて)「現に必要とされるような特段の事情は認められない」というわけです。
しかし、反対意見は親権の行使について、正当な指摘をしているのに、多数意見は親権の行使への考慮や検討が、欠けています。反対意見では「現に監護に当たっている者との関係では対等にその親権を行使し得るものであって,対立する権利の行使と見るべき側面もある」として、この事件では子をめぐって親権をもっている二人が対等に権利を行使できる関係にあることを指摘しています。これは正当な指摘です。そして、「それが親権の行使として逸脱したものでない限り,略取された者の自由等の法益の保護こそを中心にして考えるべきものである。」と言って、子の自由こそ法益として保護するべきであると言っているのです。つまり、このような父親の行為は子の自由という法益を侵害していたといえるのかということです。もちろん、現実にはこの幼児は母から奪取されて、監護環境がよいといえない状況になったようですから、この幼児にとって父がしたことは有益ではなかったでしょうが、そもそも母がしたことは有益であったといえるのでしょうか?これは裁判の判決からはわかりません。
<多数説への疑問>
子を共同監護状態から奪われた親が、子を手元に戻して子の監護をしようとする必要性はなかったといえるのか?
父母が有している対等の権利について、深い検討をするべきではなかったのか?
子を奪われた親は親権の行使ができず、子の養育義務を果たせていないが、それを実現するのには子を奪った親の協力が必要であるところ、その必要が得られていない場合に、子の監護を続けるための努力をする必要性はないのか?
私は、多数意見については、そんな疑問をもっています。
さらに多数説意見では、子を奪われた親が子と断絶されている場合に、それがいかに親子にとって残酷な仕打ちであるかについて、親子の人格権が侵害されていたのではないかという点での考察があったように、まったく感じられません。
加えて、どの意見においても、家庭裁判所で現実に子を奪われた親の親権行使の問題、先に別居をした親の実力行使によりそれができないようになっているという問題が、子の利益の観点から適切に解決できていないという実務上の論点が、全く考慮されていない点が気になります。
今の日本でも当時でも、面会交流の保全命令は出されていません。つまり、子を奪われた親は、迅速に子との交流を実現する制度を家庭裁判所はもっていないのです。にもかかわらず、手元におこうとしたことについて「現に必要とされている特段の事情はない」と多数意見は簡単に言い切っています。
7. 裁判官今井功の補足意見について
今井功裁判官もこういった問題は家庭内の紛争であるから家裁での解決を重視している点は同じです。「離婚や夫婦関係の調整事件をめぐって,子の親権や監護権を自らのものとしたいとして,子の引渡しを求める事例が増加している」という点に着目して、このような行為が刑事法上許されるとすると、子の監護について「当事者間の円満な話合いや家庭裁判所の関与を待たないで、実力を行使して子を自らの支配下に置くという風潮を助長しかねないおそれがある」という点から、特別の事情がないなら、子の奪取して子を手元に置くという行為は違法性を阻却されないという判断をしています。
「当事者間の円満な話合いや家庭裁判所の関与を待たないで、実力を行使して子を自らの支配下に置くという風潮を助長しかねないおそれがある」という点を指摘している今井裁判官は、しかし、そもそも最初の別居時点で「実力行使があった」ことを看過しています。連れ戻しのみを刑罰で規制するのであれば、別居時の実力行使について最高裁が「やっていい行為である」と太鼓判を押したことになるのではないでしょうか?その点はどうして、検討されていないのでしょう?
8. 反対意見と多数意見についての検討からわかること
この反対意見を見た後で、多数意見の「家族間における行為として社会通念上許容され得る枠内にとどまるものと評することもできない」という判断についてさらに、考えてみます。
そもそも、「家族間における行為として社会通念上許容され得る枠内にとどまる」行為というのはどういう行為なのでしょうか?夫婦で子を共同監護していた自宅から、離婚をしたいと考えて一人の親が子を遠方の実家に連れて行き、そのあと他の親との充実した交流について何も努力をしないという例は、弁護士として散見しています。そのような別居を敢行する親の行動は、社会通念上許容され得る枠内の行動でしょうか?
そのような子を連れ出した親は、それまで主たる監護者であったと判断されれば、家事審判事件で監護者として指定されることが多く、離婚して単独親権を得ることができることが多いでしょう。そういった親の代理人となる弁護士も、その見込みで受任をしているでしょう。
しかし、主たる監護者が誰であったのかは難しい問題で、最近は、共働きが多く二人で育てていたという判断がされることも増えている状態であり、そういった場合は、監護を担っていた親が連れ出した後、現在の監護をしていてそこには大きな問題がない(子供も新たな環境で頑張っているなども調査結果と記載されることが多い)ので、その親の監護の継続をすることが子の利益に資するという判断になることが通常です。わずかな面会交流をしていることでもって交流の問題はないかのような結論をされる場合も、多く、見られます。
ひどい例では、親子の交流は全くしていない場合でも、交流が課題であるという指摘が調査官に報告書上指摘されるだけということもあります。そして、そのあと、面会交流の審判がされるまでに子との交流が実現していない事案では、父母の葛藤が高いことが理由となって、むしろ交流が制限される傾向すらあります。
「家族間における行為として社会通念上許容され得る枠内にとどまる」行為とは本当にどんな行為であるのか?それこそが、家裁関係者が考えるべきことでしょう。
子どもが親ふたりに育てられる権利という観点から、そもそも「最初の別居をする行為」の違法性を、見直す必要があるでしょう。令和5年の民法改正により父母による養育が必要であることが明記されています。父母は婚姻関係がなくても父母であることも明記されました。父母が子を養育する場合、別居している父母ではそのための養育計画が必須です。そういった計画をつくる努力もせず、離婚をしたいというような一方的な気持ちから別居を敢行することは、「家族間における行為として社会通念上許容され得る枠内にとどまる」行為ではないという判断を、家庭裁判所が、今後はしていくべきであると思うところです。