1. ハーグ条約の正式名称
子の連れ去りに関するハーグ条約は単にハーグ条約と言われることがおおいのですが、ハーグ国際私法会議が採択した「国際的な子の奪取の民事上の側面に関する1980年10月25日の条約」のことです。
これは、ある国から他方の国へと子が不法に連れ去られた(奪取された)場合に、連れ去られた(奪取された)先の国では監護権に関する判断をしないで、子を迅速に元の居住国に返還する仕組みをつくるための条約です。たとえば、監護権や親権を持つ親から子を奪取したり子を隠匿して、監護権の行使を妨害した親がいた場合、もとの国(子の常居所地国)への返還を義務づけることを目的として作られています。これは、子がそもそも住んでいた国の裁判所の権限を尊重するために作られたとも言えます。
専門家は、そのため、ハーグ条約は、国際裁判管轄の分配を決めているという理解をしていることもあります。
よって、子どもの親権・監護権の判断を下すための条約ではありませんが、条約の執行では、結果的に居住国側の法律が適用されて、執行はされることになります。
国際結婚で夫婦や父母が不和となってしまった場合、一方の親が他方の親に無断で、子供を故国などの国外に連れ去ることが往々にあります。それは故国のほうが住みやすいからである場合が多いでしょう。それが、子供を連れ去った元の居住国では親権の違法な行使であり不法行為であっても、連れ去られた先の国家にはその国内法が及ばないことから、連れ去られた側が事実上何もできないということがありえます。何かできるとしても弁護士費用が非常にかかったり手続きが長期化することが多いでしょうから、残された親には酷なことになります。
そういった場合に不法なことの結果を、子を返還するという原状回復により巻き戻して、残された親を守るという面がこのハーグ条約にはあります。
しかし、後述するようなDVの事案ではこの原状回復によって、さらに子の返還後においても、親子でDVの被害にあうという結果もあり得るという問題があります。しかし、これは常居所地国におけるDV保護の問題ともいえます。
2. ハーグ国際私法会議とは?
ハーグ国際私法会議(Hague Conference on Private International Law)は、国際私法の統一を目的として1893年に設立された国際機関です。子どもの奪取に関する、ハーグ条約はこの会議が採択した条約の中で最も成功したものと言われてます。もっとも、子どもが連れ出された国家、および連れ去られた先の国家の両方が、条約加入国である場合のみに、効力を有します。
人がグローバルに移動するようになって国際結婚が世界的に増加するとともに、国際離婚が世界的に増加していますが、そうすると国際的な子の監護・親権に関する紛争もこれに伴い増えます。特に、日本人の女性が、国際結婚が破綻した際に、居住していた外国から子どもを連れて日本に戻ってきて子どもと全く会えないというような事案は多く、ハーグ条約締結前には、国際問題化していました。そのために、先進諸国からの日本政府には、ハーグ条約の批准への要請が強まっていき、日本が最終的に締結をしたという経緯があります。
3. ハーグ条約の仕組み
ハーグ条約は、子どもが連れ去りや留置によって生ずる有害な効果から子を保護するために作られています。国境を越えて不法に連れ去られた子の常居所地国への迅速な返還の確保と、子と親との面会交流権の効果的な尊重の確保が目的となっていること、そのための手続を決めることが
条約の目的であることは、前文と1条において明らかにされています。
同条約の適用対象となる、不法な連れ去り等の行為は、国境を越えて行われる16歳未満の子の不法な連れ去りと留置とされています。この対象となるのは、親の国籍が異なる場合に限りません。また、親が婚姻しているか否かも関係ありません。法的な離婚に至っているかも問題となりません。子どもが連れ去りにより、その直前に常居所を有していた国の法令に基づき監護権を侵害している場合に、ハーグ条約上は「不法」な連れ去りとして扱われています(3条)。
よく日本人夫婦であるからハーグ条約は適用されないと思ったという方がいますが、そんなことはありません。
不法に子を連れ去られた親は、各国の中央当局に対して子の返還のための援助申請を行えることになっています(7・8条)。
このように、ハーグ条約は中央当局が中心となって国際協力により子を守る仕組みを作っているのです。
中央当局の任務としてはハーグ条約では以下が明記されています。
①子の所在の発見・特定(7条a)
②子に対する危害の防止(7条b)
③任意の返還・友好的な問題解決の促進(7条c)
④子の社会的な背景に関する情報交換(7条d)
⑤自国の国内法の一般的情報提供(7条 e)
⑥子の返還の司法・行政手続の開始の便宜供与,面会交流の権利行使の確保(7条 f)
⑦法律に関する援助,弁護士の紹介等の便宜供与(7条g)
⑧子の安全な返還の確保(7条h)
⑨条約実施の情報の交換と条約適用上の障害の除去(7条 i)
ハーグ条約では、監護権や親権についての審理を最も適切になしうるのは「子の常居所地国」であるとの考えが基礎になっています。
よって、子の所在地国の裁判所が行う返還手続の審理は、返還申立ての要件の充足と返還拒否事由の有無に限定されます。誰が監護をするべきかと言う「本案」に関する審理は行いません(19条)。
ここで本案と言うのは、親権者を決めるとか監護者を決める、監護方法を決めるという今後の親子関係について決める司法手続きのことであると考えてください。
ハーグ条約では迅速な返還も大きな目的であり、締約国の司法当局・行政当局が迅速な返還手続をとって、原則として6週間以内でその手続きを行い、遅延の場合にはその理由を明らかにしなければならないともされています(ハーグ条約11条)。
子の返還の申立てがなされた場合には、子の所在地国の裁判所は奪取の時点から申立ての時点までの期間が1年未満であるときは、子の常居所地国からの不法な連れ去りであると認められれば、原則として、子を元の常居所地国に返還するよう命じなければなりません
(12条1項)。つまり、返還をすることが原則となっています。
そして、例外的な場合として、ハーグ条約では、返還義務の例外は明記されています。「返還拒否事由」と言われるものです。それは以下となっています。
4. 締結までの経緯
日本政府は、2011年5月の閣議了解でハーグ条約締結に向けた準備を進めることを決定しました。法制審議会ハーグ条約(子の返還手続関係)部会が開かれて専門家が集まって12回の会議を経た後で「国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約を実施するための子の返還手続等の整備に関する要綱案」をまとめました。
こちらで部会での議論をみることができます。
ハーグ条約ではいろいろな国の仕事をする組織が必要でそれを中央当局といいますが、日本の中央当局は外務省となりました。
そして、ハーグ条約の中央当局として、外務省がするべきことは子の返還や面会交流のための援助申請についての任務が決まり、それに加えて、子の所在の特定・任意の円満な問題解決・子の社会的背景に関する情報・自国の国内法に関する一般的情報の提供をすることや、面会交流の効果的な行使や安全な返還の確保などの措置を取ることになったのです。
2012年3月には、国会で「国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約の実施に関する法律案」が提出されたものの、国会の混乱で廃案となってしまい、安倍政権発足により、2013年3月に第183回通常国会において条約承認案及び国内実施法案が再提出され、その後、条約の加盟が承認され、6月には国内実施法案も可決成立しました。
5. ハーグ条約締結の国内的な意味
日本に対する欧米諸国からのハーグ条約への加盟の前には、日本の子の監護事件手続の実務は、父母の監護養育環境を比較するなど子の利益の実質的判断を行っており、合意による解決を可能な限り得ようとする時間のかかる調停手続を使っていたこと、外国への子の返還が子の利益に反すると判断されることが多く、日本に連れ去られた子は取り戻すことができないという傾向があったといえます。また、面会交流に関しての制度が不備であり、面会交流について日本の親が消極的態度をとることが多く、親子が全く交流できないという深刻な問題もありました。
親権者の指定・変更,子の監護者の指定,子の引渡し,面会交流などの国内事件において、子の連れ去りの動機や理由とか手段・方法・態様などについても監護の実績や監護能力だけではなく考慮されることはありますが、連れ去った親が従前により多くの監護をしていた場合、子が返還されることはまずありませんでした。残された親は親子関係の維持のための交流すらままならないことも多かったのです。ハーグ条約が締結されたことで、確実に海外からの子の連れ去りは減っており、予防的な効果はあったものといえるでしょう。
また、ハーグ条約の締結は国内事件に影響を与えた面があり、面会交流について、1996年に法制審議会による「民法の一部を改正する法律案要綱」で既に提案されていた面会交流の明文化が児童虐待の防止のための親権法の改正である「民法等の一部を改正する法律(平成23年法律第61号)」の制定の際に、民法766条に「父又は母と子との面会及びその他の交流」の文言がやっと追加されました。ですから、ハーグ条約の締結が日本における別居・離婚に伴う子の親権・監護に関する法制度や実務に少なからず影響を与えた面はあるでしょう。
しかし、一方で、ハーグ条約の締結に際し、とるべき措置に関する意見書が日本弁護士連合会から2011年2月18日に公表されていますが、その中で、国内実務への影響はないことが確認されています。
その意見書の概要は、以下のようなものでした。
日本弁護士連合会
国際的な子の奪取の民事面に関する条約(ハーグ条約)の締結に際し、とるべき措置に関する意見書
現在、政府において検討が進められている国際的な子の奪取の民事面に関する条約(以下「ハーグ条約」という。)については、多様な議論があるが、日本が同条約を締結する場合には、次の措置が十分に講じられるべきである。
1 ハーグ条約が子どもの権利条約に定める「子どもの最善の利益」にかなうよう適切に実施・運用されることを確保するために必要な事項を定めた国内担保法(以下「担保法」という。)を制定すること。その際、担保法において、
(1)児童虐待やドメスティック・バイオレンスが認められる事案や、返還を命じた場合に子とともに常居所地国に帰った親が同国において刑事訴追を受けることとなるような事案等については、返還を命じない、あるいは執行しないことができるような法制度とすること、
(2)返還の審理に際して子の意見が適切に聴取されかつ尊重されるような法制度とすること、
(3)その他同条約上の中央当局及び返還についての司法機関による審理及び審理手続・証拠方法に関する規定、返還命令の執行に関する規定、上訴に関する規定等を整備すること、
(4)ハーグ条約に遡及的適用がない旨の確認規定を担保法上定めることや、国内における子の連れ去り等や面会交流事件には適用されないことを担保法上明確化し、かつ周知すること、
(5)条約実施の準備及び国民への周知のために,条約実施・担保法施行まで3年間程度の周知・準備期間を置くこと。
2 ハーグ条約の締結と同時に、市民的及び政治的権利に関する国際規約第一選択議定書及び女性に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約選択議定書を批准し、各条約の個人通報制度を受け入れること。
3 在外邦人、とりわけハーグ条約締約国に居住する日本人に対し、当該国における親子関係法及び離婚関係法、子を連れ去った場合に犯罪となるか否か、法律扶助制度、親子関係や離婚等に関して精通している弁護士等に関する情報を提供すること、ハーグ条約発効後も引き続き同様の情報提供をすることに加え、在外領事館において可能な支援を行うことを検討すること。
4 ハーグ条約の実施に関わるすべての関係者、すなわち中央当局職員、裁判官、弁護士等に対し、子どもの権利条約を含む国際人権法に関する研修を行うことを検討すること。
5 他方の親の同意又は裁判所の許可を得ずに親が子を連れて国外に出た場合、その親を刑事処罰する法制度を有するハーグ条約締約国に対し、親が任意に子を返還し子と共に常居所地国に戻った場合には、親の刑事訴追を行わない扱いをするよう、要請や対話・交渉を行うこと。
6. DVの問題
ハーグ国際私法会議の事務局は専門家に依頼して、2017年における運用実態をまとめたレポートを公表しています。
かなりの事案において、残された側の親(夫が多い)の暴力がある場合があり、DVの問題をどう取り扱うのかというのが難しい問題と認識されています。条約には子供の親に対するDV暴力からの保護が明記されていないことから、親へのDVをもって返還拒否ができないことが問題と考えられています。